多治見の歴史 ~明治時代編~

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今回は多治見市の歴史を皆様にご紹介させていただきます。

第一弾は明治時代です。今から100年以上前の多治見市はどんな町だったのでしょうか。

 

 

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 明治の初め、現在の多治見市域は十七ヵ村に分かれていた。一番大きい村が多治見村で、その中心は本郷(生田島・大畑・下之脇之洞を除いた地域)であった。町並みは下街道筋(旧国道十九号線)と現在の市役所周辺に限られていた。四、五年頃から新しい町が出来、八年には小路町に呉服や雑貨の店が開かれるようになった。

 

 美濃焼物の生産・販売を統制していた窯元・蔵元の制度は、明治五年に廃止された。これを機に一挙に町が繁盛したとしても決して不思議ではなかった。窯元の維新への期待は「自身焼立テ候物丈ケハ勝手ニ商イ仕リ度候」の一言に尽きる。束縛から解放されて、生産にも販売にも活気の出るのは当然であった。

 

維新後、多治見は土岐川の美濃国内の出入口の地の利を占め、陶磁器を商う拠点として栄えた。その実績が陶都の名を育ててきた。陶都はひとり生産だけでなく、その技術をみがく為に学校を設け、また研究所をつくってその向上を期待した。

 

 

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 明治二十二年、多治見村は町制を施行する。東濃で唯ひとつの町である。町長岩田味三郎は多治見の町が「不整狭溢デ将来商業ノ活動ニ障碍アリ」と反対を押し切って町筋を改正する。町の有力者が原野といわれた新田西ノ原(現・坂上町)に遊郭を開き、二十五年に新羅神社の北(現・広小路)に移転した。開業の日には町は祝いに湧いた。町の発展が西に移り“西盛東弱”といわれた。榎元座での名優の来演に、木戸締切りも珍しいことでなかった。二十年代の多治見町はどの村よりも活気に満ちていた。

 

 また豊岡町が活気を見せ始めたのは、三十三年の中央線開通以後である。名古屋から来る人、名古屋へ行く人で日曜日の多治見駅は賑わったという。二十七年に永保寺観音堂・開山堂が国宝に指定され、庭園はつとに名勝として名を知られていた。名古屋からはその観光客である。三十五年には虎渓用水が完成した。享保十六年(一七三一)の発願より百七十年ぶりの宿願成就である。

 

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『思い出のアルバム 多治見より』抜粋

 

次回は大正、昭和の時代をご紹介いたします。

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